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能力を「問う」こと

昨日から、「国際信州学院大学」と言うワードが話題をさらっている。なんでも、その大学の教授たちが、あるうどん屋の飲み会の団体予約をドタキャンし、その店が大損害を被ったというツイートが拡散されているのだ。教授たちに代わって謝罪のリプライを送る学生も確認されている。


という具合に概要を説明したが、実はこのニュースは全て嘘なのだ。何処からが嘘なのかというと、最初からだ。そもそも国際信州学院大学なんて大学は存在しない。被害を受けたうどん屋「蛞蝓亭」も存在しない。謝罪のリプライを送った学生も、実際には存在しない。すべて匿名掲示板の利用者たちによる壮大なでっち上げだったのだ。彼らが仕掛けた世間に対して仕掛けた巨大な「釣り」としてのこの一連の行為のディテールや是非については、当記事で言及すると途方もなく長くなってしまうため割愛する。


このフェイクニュースを受けて、これはネットリテラシーの問題だ、という発言が多く見受けられる。ここでいうリテラシーとは恐らく嘘を嘘と見抜く能力のことだと考えられるが、本当にそれはこの現場で問われていたのだろうか。多くの人が適切なリテラシーを持っていれば、ドタキャンツイートは拡散されることはなかったのだろうか。そもそも、嘘を見抜く力とはどの程度のものを想定しているのだろうか。現代の情報の奔流の中で、本当に正しい情報だけを常に適切に選り分けられている人など実在するのだろうか。


このような、「〇〇という能力に長けていれば大丈夫」または、「〇〇力がなければならない」と言った言説を多く目にするように思う。例えば、「コミュ力」「ギャグセン」「女子力」など、いささか抽象的な概念だ。しかし、これらがないばかりに苦労しているという話や、これらが評価されるための基準として厳然と存在していると言った旨のツイートを目にしたことがある人も多いだろう。そういった言説の根底にあるのは、それさえあればなんとかなるのに、という発想と、人の価値をわかりやすくランク付けしまおう、という考え方のどちらか、または両方であると僕は思っている。しかし、本当にその能力を得ただけでは評価されたり、活躍できたりするのだろうか。また、ある特定の抽象的な行動基準だけで人の善し悪しを決めてしまうことはできるのだろうか。


対照的な題材ながら、似た文章を目にしたことがある。それは、「日本の必殺技文化」が、スポーツの分野では悪い意味で蔓延ってしまっていると批判する記事だった。確か、選手の得意技をまるでヒーローの必殺技、もっと言えば黄門さまの印籠ように、必勝アイテムとして扱ってしまうことで、選手元来持っている別の能力の向上や、他の得点源への注力を妨げてしまう危険性を訴える内容で、世間やマスコミのスポーツの扱い方への警告として非常に興味深かった覚えがある。


フワフワした名称の人間的能力も、たった一つの必殺技も実は根が同じだったのだ。僕は何かひとつの事柄に踊らされてしまいがちになってしまってはいけないと考えている。かく言う自分にもその傾向があるからだ。小さな事にとらわれずにより広い目で自他を見ることができる世の中になれば、多くの人々がより高い評価を得て生き生きと過ごすことができるのではないだろうか。