ブログの体裁を変更したい
年が明けて以来ずっと、自分の思考や感情を整理した過程および結果を軽率にアウトプットできる機会を増やしたいと考えている。しかし、全くブログの更新を行わずにいる。このままでは面白くないので、ブログの体裁を変更することにした。当ブログは、1つめの記事で、「最近の話題をTwitterなどから取り上げ整理する」というお題目を掲げている。しかし、お題の性質上急ごしらえの記事を乱発してしまっては「モーメントのリンクを貼ったtweetで済む」程度の内容に留まってしまうだろう。それは僕の本意ではないので、当面このブログを僕の個人なチラシの裏として運用することに決めた。
個人的に、Twitterという(僕にとってメインの1つである)メディアと自分との相性の限界を感じていて(詳しくは後日記事にするかもしれないし、しないかもしれない)、その要因の1つが文字数制限である。そこで、これからこのブログでは140字では収まらない、時系列に縛られない僕の言葉(或いは受け売り)を自分の自由帳として、願わくばどこかの誰かが面白おかしく読めるものとして遺しておくことにする。
サイゼ初デート論争、それぞれの主張
サイゼ初デート論争がまた燃え上がっている。はっきり言ってそもそもの問題設定がおかしい上に、言及するだけ無駄な話題だと思うので燃えている事態そのものに対して。モヤモヤするが、敢えて軽く分析してみることにした。7/31未明にTwitterで"サイゼ"と検索し、話題タブ上にヒットしたツイートをざーっと読み、パターンごとに独断と偏見で分類し解説してみた。
ついでに自分なりのプチ考察を残しておくことにする。
サイゼ論客分類
●値踏み否定型
何らかの手段を講じて女性を値踏みする行為とそれを働こうとする男性を批判、火種となったと思われる言動の論旨を正面から否定している言える。よく目にする。
派生:そもそも試し行動ダメ、絶対型
相手を試すことで信頼に足るかどうかを判断する行動はあってはならないとする意見。値踏み否定型主張を強化していると考えることもできる。
●デートの場所をちゃんと選べ型
お付き合いするかどうかを決定づけるイベントが本当にサイゼでいいのか考えろという主張。元の論旨とはやや外れるが真っ当な指摘とも受け取れる。その割にあまり目にしない。
●男叩き型
女性を値踏みの対象とすることの無意味さを説くが、まーん()的女性観を持つ男性をより強く批判している。
派生:童貞キモオタは黙ってろ型
対抗:女叩き型
「「デートでは奢ってもらうのが当たり前」と考える女性」を仮想敵としているようだ。目にする数は少ない。やばい。
●外し型
サイゼ論争に絡めて自分の食事の話をしたり、自分の推しならサイゼでデートでも最高と言うなど、無害。
●サイゼ擁護型
安い食事、しょぼいレストランの代表格扱いをたしなめる意見。サイゼが好きなんだ!ふざけるな!という怒り型や、サイゼは本当はすごいんだぞプレゼン型が中心。よく目にする。
●どの立場だよ恋愛語り型
恋愛にとってこれがセオリーである。よってサイゼを初デートで利用するのは~というように的外れな正解を提示する。後述する惚気型や、2つの合体パターンを合わせると結構目にする印象。
派生1:惚気型
自分の恋人とはこうだからサイゼでも平気、サイゼより安上がりな公園でパピコでも平気など、自分の恋人との関係に照らして何かを言う。少ないが一定数以上に存在すると考えられる。
派生1-2:元カノ型。今の恋人ではなく元カノがサンプルとなるのでネガティブなエピソードトークが目立つ。
派生2:好きな人となら~型
好きな人とならどこでも楽しみと思うんだけどな~と言っている。それ自体は正しいが、市井の女性と思しきアカウントからのこのタイプのツイートは簡単には確認できず、大体一人称が僕のアニメアイコンなのはどことなく黒いものを感じる。
オマケ
◎初手カップヌードルの恐怖
初デートがサイゼなんて、彼女の初手料理がカップ麺みたいなもんじゃないのか!と言う、ハナからおかしい問題設定に対する問題の設定がもっとおかしいツイートが散見された。伝言ゲーム的に論点が歪められていくのはTwitterの面目躍如と言っていいだろう。
◎冷たいインセル
このような言説が話題を呼んでしまい、Twitter上の男性のヤバめな女性に対する考え方が露呈しているように思えた。インセルとは、非自発的禁欲状態の男性たちが、自分を選ばない(または、選ばなかった)女性たちを憎む思想のこと。大量殺人犯がこの思想を持っていたこともあり、有名になった。
血が流れる事態こそ起きていないものの、こうした思考に近いものを男性社会の一部は抱えてしまっているのではないだろうか。
◎火種は婚活アドバイザー?
「初デートにサイゼリヤに行き、相手が金のかかる女性か見極める」というのは、元はといえば婚活アドバイザーの発言だという。コンサルとは往々にして信用し過ぎ注意なものだが、流石にあんまりだと感じる。
婚活というムーブメントは、相手を値踏みする必要性が通常の恋愛と比べて過剰に高めるという問題を抱えているという指摘を目にしたことがあるが、納得である。
以上でこの記事を終えようと思う。何故ここまで燃えるのか分からず、モヤモヤを抱えている人に、このくだらない喧嘩の勢力図を見て少しすっきりしてもらえればと願っている。
今回のもっとも大きな気づきは、上述したように、「好きな人となら何処に行ったって楽しいと思うんだけどな(大意)」と言っているのが、一人称が"俺"または"僕"のアニメアイコンだったというところだろう。多くは語るまい。
能力を「問う」こと
昨日から、「国際信州学院大学」と言うワードが話題をさらっている。なんでも、その大学の教授たちが、あるうどん屋の飲み会の団体予約をドタキャンし、その店が大損害を被ったというツイートが拡散されているのだ。教授たちに代わって謝罪のリプライを送る学生も確認されている。
という具合に概要を説明したが、実はこのニュースは全て嘘なのだ。何処からが嘘なのかというと、最初からだ。そもそも国際信州学院大学なんて大学は存在しない。被害を受けたうどん屋「蛞蝓亭」も存在しない。謝罪のリプライを送った学生も、実際には存在しない。すべて匿名掲示板の利用者たちによる壮大なでっち上げだったのだ。彼らが仕掛けた世間に対して仕掛けた巨大な「釣り」としてのこの一連の行為のディテールや是非については、当記事で言及すると途方もなく長くなってしまうため割愛する。
このフェイクニュースを受けて、これはネットリテラシーの問題だ、という発言が多く見受けられる。ここでいうリテラシーとは恐らく嘘を嘘と見抜く能力のことだと考えられるが、本当にそれはこの現場で問われていたのだろうか。多くの人が適切なリテラシーを持っていれば、ドタキャンツイートは拡散されることはなかったのだろうか。そもそも、嘘を見抜く力とはどの程度のものを想定しているのだろうか。現代の情報の奔流の中で、本当に正しい情報だけを常に適切に選り分けられている人など実在するのだろうか。
このような、「〇〇という能力に長けていれば大丈夫」または、「〇〇力がなければならない」と言った言説を多く目にするように思う。例えば、「コミュ力」「ギャグセン」「女子力」など、いささか抽象的な概念だ。しかし、これらがないばかりに苦労しているという話や、これらが評価されるための基準として厳然と存在していると言った旨のツイートを目にしたことがある人も多いだろう。そういった言説の根底にあるのは、それさえあればなんとかなるのに、という発想と、人の価値をわかりやすくランク付けしまおう、という考え方のどちらか、または両方であると僕は思っている。しかし、本当にその能力を得ただけでは評価されたり、活躍できたりするのだろうか。また、ある特定の抽象的な行動基準だけで人の善し悪しを決めてしまうことはできるのだろうか。
対照的な題材ながら、似た文章を目にしたことがある。それは、「日本の必殺技文化」が、スポーツの分野では悪い意味で蔓延ってしまっていると批判する記事だった。確か、選手の得意技をまるでヒーローの必殺技、もっと言えば黄門さまの印籠ように、必勝アイテムとして扱ってしまうことで、選手元来持っている別の能力の向上や、他の得点源への注力を妨げてしまう危険性を訴える内容で、世間やマスコミのスポーツの扱い方への警告として非常に興味深かった覚えがある。
フワフワした名称の人間的能力も、たった一つの必殺技も実は根が同じだったのだ。僕は何かひとつの事柄に踊らされてしまいがちになってしまってはいけないと考えている。かく言う自分にもその傾向があるからだ。小さな事にとらわれずにより広い目で自他を見ることができる世の中になれば、多くの人々がより高い評価を得て生き生きと過ごすことができるのではないだろうか。